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飛鳥宮跡(あすかきゅうせき)〔高市郡明日香村岡・飛鳥〕
 
飛鳥宮跡Ⅲ期遺構の内郭正殿

 飛鳥宮跡は明日香(あすか)村岡(おか)、飛鳥(あすか)に所在する宮殿遺跡である。古くから飛鳥(あすか)板蓋宮(いぶきのみや)の伝承地とされてきたが、昭和34年(1959)に発掘調査が始まり、奈良県立橿原考古学研究所が主体となって平成28(2016)年度までに約180次におよぶ調査が実施されている。複数の宮が重複する宮殿遺構であることが確認されているが、調査当初、宮号の特定が困難であったことと京域の存在が想定されていたことから、便宜的に「飛鳥京跡(あすかきょうせき)」と呼び、それが現在にも調査名として引き継がれている。遺跡名としては、この一体が飛鳥板蓋宮の伝承地であったことから伝飛鳥板蓋宮跡、飛鳥板蓋宮伝承地とされてきたが、発掘調査や研究の成果を受けて現在では史跡指定地も含めて飛鳥宮跡となっている。
 確認された遺構は、造営順にⅠ期、Ⅱ期、Ⅲ期と区分されており、出土した木簡の記述や土器の年代から、Ⅰ期が舒明(じょめい)天皇の飛鳥(あすか)岡本宮(おかもとみや)、Ⅱ期が皇極(こうぎょく)天皇の飛鳥板蓋宮、Ⅲ期が斉明(さいめい)天皇の後飛鳥(のちのあすか)岡本宮(おかもとみや)と天武(てんむ)・持統(じとう)天皇の飛鳥(あすか)浄御原宮(きよみはらみや)に相当するものと考えられている。なお、建物はすべて掘立柱建物で、瓦葺きの建物ではない。
 Ⅰ期遺構は、北で西に20度前後振れる遺構群である。上層の遺構を保存するために限られた範囲での調査しか行われておらず、全体像はまったくつかめていない。塀の柱抜き取り穴には炭や焼土が混ざっていることから、火災にあったことがわかる。Ⅱ期遺構は、造営方位が南北を向くもので、Ⅰ期遺構を覆う形で土地造成を行った上で造営されている。全体像は不明だが、中枢部を囲むと想定されている区画塀などが検出されている。
 Ⅲ期遺構は最上層の宮殿遺構であり、宮殿中枢部の内郭とその東南に造られたエビノコ郭、そしてそれらの周囲にある外郭と呼ばれる三つの区画から構成され、外郭とエビノコ郭は内郭よりも遅れて造営された。内郭は南北約197m、東西152~158mの方形区画であり、東西塀で私的空間の北区画と公的空間の南区画とに別けられる。北区画には同じ規模の大型建物(正殿)が南北に並立し、どちらも東西に廊下でつながる小型建物がある。エビノコ郭は一本柱塀で囲まれた一郭で、西辺に内郭南門と同規模の門が開く。この門を入った正面には飛鳥宮跡で最大級の正殿が建つ。内郭は天皇が日常生活を送る内裏を含む一郭であり、エビノコ郭は天武朝に造られた「大極殿(だいごくでん)」とみなす見解が多い。

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